というと、かの ヘレン・ケラー女史 の教育係を務めた方。
目が見えない、耳が聞こえない、喋れない、、という三重苦を抱えた幼いヘレン・ケラーさんを立派な社会人になるまでサポートした方だ。
当時の社会環境下でどうしてあのような素晴らしい教育ができたのか、、、誠に敬服するしかない。

話の次元は異なるが、私は22歳までここ福岡で生活し、その後東京で生活してきた。
振り返ると自分の人生の大半は東京だったことになるが、しかし、人間形成の基本的な部分は福岡で教育されている。
生活に必要な言語は叩き上げの博多弁だったがその後の長い年月で東京弁へとシフトした。
しかし、幼少期からの言語環境はそう簡単に変えられるものではない。
発音の微妙なイントネーションや時には単語まで、いまだにどっちつかずの状態を感じさせることが多い。
そのような時に、生まれも育ちも東京の妻や子供達に今でも発音を確認する場面が多い。